タイの歴史① タイ立憲革命

4人の虎

立憲革命を実行した4人「4頭の虎」

昨日6月24日はタイの立憲革命が起きた日です。それまで絶対王政だったタイ王朝が立憲君主制に移行しますが、人民党による決起で行われたために、国王は内心不満を持ちながら承認したようです。そこで、ベトナムに続いてタイの歴史シリーズを始めることにし、最初にこの立憲革命を取り上げます。
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1、はじめに(背景)

ピプーン

立憲革命を指導した ピブーンソンクラーム

当時の国王であったラーマ7世(プラチャーティポック)は大規模な官僚らのリストラを行うも、1929年に始まった世界恐慌はタイ最大の輸出品であった米の輸出量を大きく下げ、これに伴い政府の収入も下降します。国王は財政再建のため官僚らの給料の据え置きを画策。ラーマ4世の孫である陸軍元帥ボーウォーラデート親王がこの政策に反対し、摂政のナコーンサワンウォーラピニット親王や運輸省のカムペーンペットアッカラヨーティン親王と口論を交わし、最終的に辞任してしまいます。
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この事件は、そのころ普及し始めた新聞が連日報じ巷を騒がせます。その一方でラーマ7世は同時期にチャクリー王朝150周年記念日に向けて、欽定憲法を制定しようと考えていたがナコーンサワン親王、憲法草案に携わったプラヤー・シーウィサーンなどの反対より断念しますた。このような状況で、立憲革命は勃発します。
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2、人民党による決起

プリティパノムヨン

プリーディー・パノムヨン(タイ民主主義の父と呼ばれる)
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プリディーパノムヨンやピプンーンソンクラームらにより、1927年に人民党が結成されます。最初は7人による小さな勢力でしたが、フランス留学時代のつてやあるいは社会不安に乗じてどんどん勢力を拡大していきます。1932年6月12日四回にわたって行われた会議の末、プラヤー・ソンスラデートの家でクーデターの実行が決定しました。6月19日に国王が保養でフワヒンに滞在している間に、主要な王族や政府高官を拘束し、ラーマ5世騎馬像前で独立を宣言するという内容です。しかし、メンバーの都合や政府の察知されるなど延期が続き6月24日に実行されました。陸軍軍人の人民党メンバープラヤー・リットアッカネーは午前5時に陸軍は第一砲兵隊のトラックを奪い、同じ陸軍のプラ・プラサートピッタヤーユットは騎兵連隊に忍び込み首都で争乱が起きたと偽り、兵士と武器を奪いプラヤー・リットアッカネーの用意したトラック載せて、ラーマ5世騎馬像前に運びました。この間ピブーンはパーヌパンユコン親王を監視します。一方で海軍の人民党メンバーであるシン・カモンナーウィンを中心とするグループは、陸戦隊400人全員を連れだし、多量の武器と一緒にラーマ5世騎馬像前に運びます。集合時間の6時過ぎ、首都で一番の権力をもつ、摂政のナコーンサワン親王を拘束するように命じました。ナコーンサワンはパジャマ姿のままバーンクンプロム宮殿(現タイ国立銀行博物館)のチャオプラヤーに架かる桟橋から船で逃げようとするもものの、人民党員の乗った軍艦が見張っていて身動きがとれないところを、一悶着の末、着替えも許されず連行されました。軍隊や警察などのおもな機関の高官が捕らえられ、ラーマ5世騎馬像の北に建つアナンタサマーコム宮殿に拘束されてしまいました。

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3、王族との会議

マノーパコーン

プラヤー・マノーパコーンニティターダー(タイ初代首相)
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プラヤー・パホンは兵士の前に出ていわゆる『人民党宣言』を発表します。その後、人民党は4時から王族を集めて王族との会議を行いまさいた。今後のことを相談します。プリーディーはクーデターが王族らに「新憲法の制定」のための正当なものであることを説明します。タイがイギリスとフランスに挟まれたいわゆる緩衝地帯であったため外交面では列強との連絡を取り、人民党の意図を説明することが不可欠でした。ラーマ4世の孫であった外相のテーワウォンワロータイ親王は国王の反応を知りたがったが、諸外国との連絡役をすることを約束しました。一方国王には翌日25日に、プラヤー・パホン、プラヤー・ソンスラデート、プラヤー・リットアッカネーが署名した「国王が首都に戻り、立憲君主とならねば、新たに国王を立てる」という旨の最終通告を受け取り、26日にバンコクに戻りました。当日の11時人民党やクーデターに参加したメンツに対する恩赦が下り、国王は憲法草案を手渡され、翌日に臨時憲法として承認します。28日には人民代表委員が開催されプラヤー・マノーパコーンニティターダーがタイ初の総理大臣として任命されました。

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4、まとめ(結果)

ラーマ七世憲法署名

新憲法に署名するラーマ7世王
松尾ジンギスカン

このクーデターにおいては外相が早々と新政権に協力し、国王も以前のままであった事などから、外交関係に良くも悪くも変化が生じる事はありませんでした。一方、暫定憲法を承認したラーマ7世は『人民党宣言』に王族批判があることに不満を述べ、マノーパコーン政権を圧迫します。、「神聖にして、犯すべからず。」の文を入れさせたりします。この後も、ラーマ7世は自分の意に従わない事があるとすぐに退位をほのめかし政権に干渉します。文民派の力は弱くなり、急激に軍部がのし上がっていきました。1933年6月20日、プラヤー・パホン、ピブーンらが、超法的な処置を展開するマノーパコーン政権の無能さを理由にクーデターを起こし、立憲以降初の軍事政権を迎えました。1934年にはラーマ7世が白内障を理由に外遊を開始し、翌年の3月2日いつまで経っても民主政治に移行しないパホン政権に向けて「私は人民のために、元々私に有ったところの権力を放棄する心の準備は出来ている。」との名言を残し退位しました。
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投稿者: kumakuma2018

東南アジア10ヶ国中、ブルネイを除く9カ国に渡航経験があり、15年以上前からほぼ毎年渡航していて、日本で東南アジア料理店を経営しています。

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