ベトナム阮朝の皇帝たち(10代・11代)ベトナムの歴史⑯

成泰帝と大臣

ベトナムの歴史の続きです、ベトナム阮朝の2代の皇帝は、実は聡明で内心フランス植民地政府に反感を持っていました、裏で活動していた独立運動勢力に共鳴したために廃帝となってしまい、親子ともども島流しに会いました。独立への思いは王朝の皇帝強かったのがうかがえます。
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1、はじめに

レユニオン

レユニオンの国旗

ベトナムの歴史シリーズ、阮朝の10代と11代の2人の皇帝(親子)の足跡を見ていきます。このあたりは、あまり詳しい情報もないためか今まで知らないことも多いので、勉強になりました。
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ふと、この2代の親子をテーマにした物語を作ればそれなりの映画やドラマになりうるそんな不思議な人
生を歩んでいるような気がしました。
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2、10代皇帝 成泰帝(タインタイ)

成泰帝
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9代皇帝同慶(ドンカイン)帝の子(後の12代啓定(カイディン)帝)は、当時幼少だったため従兄弟にあたる育徳(ズクドゥク)帝の子成泰帝が即位しました。同慶帝の在位期間内は育徳帝の子で、反皇帝勢力との接触を防ぐため、母親とともに王宮内で軟禁されていました。死後、フランス当局は幼い頃より聡明と気付き、10歳で即位します。フランスは成泰帝が反抗心を持たないよう教育に努めました。成泰帝はそのことを見抜いたらしく、フランス人の前では政治に関心がないかのように見せていたのですが、密かに民情を探るべく度々王宮からお忍びで外出していました。西洋文化に多大な興味を持ち、ベトナムの君主では初めて自ら自動車を運転しました。また髪型も西洋風に改めます。しかし実権を握るフランスには徐々に反抗心が芽生えました。1907年にそのことがフランス当局にわかり、28歳で強制的に退位させられ、息子の維新帝が即位します。退位後はベトナム南部のブンタウに追放されます。1916年5月2日、ファン・ボイ・チャウが組織した「ベトナム光復会」の叛乱計画に呼応した維新帝と共に、親子揃って、マダガスカルのレユニオン島へ流刑されます。1945年にベトナムへの帰国が許されるも、依然軟禁されたまま、第一次インドシナ戦争終結直前の時代にサイゴンにて75歳で死去しました。
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3、11代皇帝 維新帝(ズイタン)

維新帝
【Sulali Slim(スラリスリム)】

1907年9月、フランスの圧力により退位させられた父に代わり、7歳で皇帝に即位しました。治世の間特に目立った情報がありませんが、1916年5月2日未明、ファン・ボイ・チャウが組織した「ベトナム光復会」のフランスへの叛乱計画に呼応してフエ王宮を脱出します。しかし6日に逮捕されて廃位され、父とともにマダガスカル島沖の孤島・レユニオンに流されてしまいました。ここでフランスから与えられた優遇措置を受け入れることを拒否し、ラジオを修理して生計を立てるためにセント・デニス市に小さな家を借りました。その後、地元の法律学校に通って外国語を学びました。第二次世界大戦中、に彼は連合国側の自由フランスに共鳴します。恐らくこのころには、阮福晃(Nguyễn Phúc Hoảng)と名を改め通信技術をつかって、枢軸国側のヴィシー政府の占領下にあったレユニオン島にて、2年間にわたり島の情報を連合国側に流しました。島内のレジスタンスに連合国の状況を伝えます。しかし1942年5月、ヴィシー政府側にレジスタンス運動を露見されてしまい、隔離病院に監禁されます。ところが同年11月28日、レユニオン島の戦いにて救出されました。同日、自由フランス海軍駆逐艦レオパールの通信要員として参加することになります。同年12月5日、陸軍少尉に任官[し、パリ解放後の1944年12月5日に大尉、1945年7月25日に少佐、9月25日に中佐および大隊長とフランス軍の中で出世していきます。フランスのド・ゴール将軍は、保大帝に代わる親仏派の指導者として維新帝に注目します。12月14日に会見し、帰国のため一旦レユニオン島に戻る途中、12月26日に乗っていた飛行機が墜落、死去しました。
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4、まとめ

阮福晃(維新帝)

阮福晃(維新帝)(Nguyễn Phúc Hoảng)
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以上です。この2代の皇帝は、何れも頭が良くて能力があったようなので、平時なら相当な名君になったような気がします。時代が時代だけに不幸な歴史を歩んだのがわかります。特に維新帝の方は、フランス植民地政府には反旗を翻すものの、つかまって島に流されてからは、今度は連合国側に親しみをもって協力することで、軍の中で出世するという不思議な経歴を持っているのは面白いところです。ひょっとして祖国の独立の手助けをしてくれると思ったのかもしれません。飛行機の墜落で死亡しましたが、もしそういう事件がなく、息長られていたらどういう人生を歩んでいたのか、少し気になりました。

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投稿者: kumakuma2018

東南アジア10ヶ国中、ブルネイを除く9カ国に渡航経験があり、15年以上前からほぼ毎年渡航していて、日本で東南アジア料理店を経営しています。

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