現在のベトナムを建国した、ホー・チ・ミンの国家建国までの生涯を調べて見ました。 ベトナムの歴史⑭

ホーチミン

今回は、ベトナムの建国の父「ホー・チ・ミン(ベトナム語: Hồ Chí Minh / 胡志明)」を取り上げてみます。ベトナムの歴史もサイゴン陥落の時から14回目となりましたが、この間の歴史の流れは基本的に
彼の人生と重なる部分が多いです。今回は特に彼の前半生(ベトナム民主共和国建国)までを追いかけていきます。
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1、はじめに(生い立ち)

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ホー・チ・ミンは、1890年5月に、当時フランスの植民地ベトナム中部のゲアン省(北中部省都はヴィン)で、貧しい儒学者、グエン・シン・サックの子として生まれました。幼名はグエン・シン・クン(ベトナム語: Nguyễn Sinh Cung / 阮生恭)です。
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父の影響を受けたホー・チ・ミンは幼少から論語の素読を学んで中国語を習得しました。やがて父が阮朝の宮廷に出仕することになり、ホー・チ・ミンも都のフエに移ります。ここでベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学びました。
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2、ヨーロッパに渡航

若いホーチミン

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ホーチミンは、国学在学中に農民の賦役納税に反対する運動に携わったために、フランス当局に目を付けられて退学処分となってしまいました。その後、ラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号という船の見
習いコックとして採用されたホー・チ・ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへと向かいます。7月6日にマルセイユに到着して、初の外国暮らしを体験します。そこでフランス本国にも、植
民地の原住民として虐げられているベトナム人と同様に貧しいフランス人が存在していることを知る事になります。この体験は、後の新国家建設への影響を受けました。9月15日に植民地学校の入学願書を提出した後ホーチミンは、ラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号でいったんサイゴンへ戻ります。役人を罷免されてカンボジア国境近くで、ゴムのプランテーションの労働者や薬の行商人として生活していた
父を探すためででした。コーチシナ地域にに数週間滞在し、再び同じ船会社の船でマルセイユへ向かいますが、植民地学校の入学願書が不受理となっていたことを知り、入学を断念します。、ホーは「世界を見てみたい」とかんがえ、船員として働くことを希望します。ホーチミンはは船員としてアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地とアメリカ合衆国、ラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国を回りました。1913年にアメリカ合衆国を離れたホーは、英語を本格的に学ぶためにイギリスに移住することになります。
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3、共産党入党

東ドイツ兵とホーチミン

同じ共産主義国だった東ドイツにて
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ホーチミンは、1917年12月にパリに戻ります。同じ年にロシア革命が起こりました。このことが彼の思想に大きな影響を与えます。ホーチミンはパリに戻ってから政治活動を本格化し始めます1919年初頭に
、ホーはフランス社会党に入党します。同年、安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織して事務局長となります。この年、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が開催され、ホーは安南愛国者協会を代表して会議に出席し、8項目からなる「安南人民の要求(ベトナム語版)」という請願書を提出します。内容は「全ての政治犯の釈放」「報道と言論の自由の保障」「結社と集会の自由の保障」など、植民地のベトナム人も本国のフランス人と同等の権利を保障することを要求するものででした。この請願書を提出する時、本名の「グエン・タト・タイン(阮必成)」ではなく、「グエン
・アイ・クオック(阮愛國)」として署名しています。(以後、本名ではなく、「グエン・アイ・クオック」として政治活動を行います。パリ講和会議で「安南人民の要求」は採択されなかったものの、グエン・アイ・クオックの名は穏健なナショナリスト(民族主義者)として世界に知られるようになりました。
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1920年7月、フランス社会党の機関紙『リュマニテ』に、フランス語に翻訳されたウラジーミル・レーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』が掲載され、感銘を受けたホーは、同年12月、フラ
ンス共産党の結成に参加します。1923年にソビエト連邦に渡り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出されました。名実と共に共産主義者となったホーチミンですが、共産社会の実現よりも、ちベトナムの独立が目標でした。中華民国・広東に赴くと、ベトナム青年革命同志会を創立します。1930年にイギリス領香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集めて、それらを統一してベトナム共産党(インドシナ共産党と改称)を創立しました。

だが、ホーチミンの民族解放を重視する姿勢は、共産党のコミンテルンからは異端視されました。1930年代のコミンテルン内部のベトナム人の共産主義者のグループでは、ホーチミンはは権力の中枢から疎外されてしまいます。日常の「実践」活動から外され、国際レーニン学校や民族植民地問題研究所での「学習」生活を強いられてしまいます。その後、1935年の第7回大会で反ファシズム統一戦線に路線転換して民族問題を重視するようになると、ホーチミンのの姿勢がコミンテルンの主流となります。ホーチミンのライバルと達(ベトナム人共産主義者の指導者たち)がフランスによって弾圧され、コミンテルンを
代表するベトナム人共産主義者が、ホーチミン一人となり、政治活動の第一線に復帰しました。
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4、第2次世界大戦と新国家建国

ヴォー・グエン・ザップと

ベトナムの統一に向けた戦争を指揮したヴォーグェンザップと
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1939年に第二次世界大戦が勃発すると、1940年6月にはドイツがフランスを占領し、世界各地のフランスの植民地政府は親独のヴィシー政権につくか、反独かつ親連合国の亡命政権である自由フランスにつくか選択を迫られていました。ベトナムのあるフランス領インドシナ(仏印)は最終的にヴィシー政権につくことを選択し、ドイツ政府と手を結んだ大日本帝国との対立を免れたものの、大日本帝国はヴィシー
政権の承認の下で「南方進出」の一環として1940年には仏印北部に、1941年には仏印南部に進駐し(仏印進駐)、ヴィシー政権との関係を維持するため、植民地政府(フランス・インドシナ政庁)との共同
統治体制を布きました。
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ホー・チ・ミンは、これまでイギリス領香港、ソビエト連邦のモスクワ、中華民国の延安(中国共産党の中央根拠地)や雲南省などで活動を展開していましたが、インドシナ半島情勢の急展開で、1941年に雲
南省から国境を越えて祖国ベトナムに30年ぶりに帰国することになり、カオバン省(中国と国境を接しているベトナム東北部)に入りました。ホーチミンはここで、ベトナム独立のための統一戦線組織「ベト
ナム独立同盟会」(ベトミン)を組織してその主席に就任しました。ここでは、ベトナムを支配してきたフランスに替わって、事実上の宗主国的存在になった日本に対する武装闘争の準備に着手します。

しかし、ベトミンは軍事的にはまだまだも弱体だったので、1942年8月に中華民国に赴いたホーチミンはて、日本軍と戦っていた蒋介石に協力を求めようとします。このとき従来の「グエン・アイ・クオック
」ではなく、「ホー・チ・ミン」の名を使うようになりまし。しかし中国共産党の勢力拡大を嫌う中国国民党の地方軍閥政権によってホーチミンは逮捕されてしまいました。13ヶ月間も各地の牢獄をたらい回
しされたあと釈放され、1944年にようやく根拠地に帰ることができました。
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大日本帝国軍の敗北が決定的になった1945年8月にホー・チ・ミンは政権奪取にむけて行動を開始します。8月13日から8月15日にかけて、ホーチミンはタンチャオでインドシナ共産党全国大会を開きました。ここで、全国的な総蜂起を決議します。8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受諾し、玉音放送を通して短波放送が伝わり、ベトナムが事実上無政府状態となッたのを知った、ホーチミンは8月16日、国民大会を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出します。国際的に知られた名前である「グエン・アイ・クオック」の名を使って、全国総蜂起のアピールを発し、ベトミンの指導下に全国的な
民衆蜂起「ベトナム八月革命」が始まります。8月19日、ハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都「フエ」でも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握しました。南部の中心都市「サイゴン」でも8月25
日に民衆蜂起が発生し、ホーチミン率いるベトミンはベトナム全土を掌握していきました。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホーは首相兼外相に選出されました。8月30日に阮朝皇帝「バオ・ダイ」が退位し、阮朝・ベトナム帝国が滅亡したました。大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった9月2日、ホーチミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国して国家主席兼首相に就任しました。

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5、まとめ(ベトナム民主共和国建国後)

ホーチミン廟

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ホーチミンはベトナム国家を建国したものの、フランスとの第一次インドシナ戦争とアメリカとのベトナム戦争が待っていて、その後長い闘いの歴史が始まります。1951年2月ベトナム労働党が結成され、ホ
ーは労働党主席に就任し、党と国家の最高指導者としてベトナム民主共和国を統治しました。日常的な党務は第一書記のチュオン・チンに委ね、第一次インドシナ戦争終結後の1955年9月には首相職をファム・ヴァン・ドンに譲りました。続くベトナム戦争の頃には、ホーチミンは強力なリーダーシップを発揮することはないものの、1966年7月17日にラジオ演説で『抗米救国檄文』を発表して「独立と自由ほど尊
いものはない」と呼びかけるなど、国家元首としてベトナム人民を鼓舞し続けました。しかし戦争終結に向けた動きが始まった1969年9月2日、ホー・チ・ミンは突然の心臓発作によって死去し、79年の生涯
を閉じました。その後サイゴンが陥落し、名実と共にベトナムが独立と統一を果たしたのはそれから6年後の1975年のことでした。こうしてホーチミンの生涯を見てみると、他の活動家よりも外国での経験が豊富だったのが、非常に有利に働いたような気がしました。
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投稿者: kumakuma2018

東南アジア10ヶ国中、ブルネイを除く9カ国に渡航経験があり、15年以上前からほぼ毎年渡航していて、日本で東南アジア料理店を経営しています。

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