ベトナム独立の父「ホーチミン」に影響を与えた2人の活動家 その2 ベトナムの歴史⑬

ファンチューチン2

ベトナムのお札にも出てくる独立運動家「ホーチミン」に影響を与えた2人の人活動家。2人目はファン・チュー・チンを取り上げます。このベトナムのお札にも出てくる独立運動家「ホーチミン」に影響を与えた2人の人活動家。2人目はファン・チュー・チンを取り上げます。この人は、ファン・ボイ・チャウドンスー(東遊)運動に参加し、またのちにホーチミンが代表を務める「安南愛国者協会」にも参加しました。
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1、はじめに

ファンチューチン
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今回の、ファン・チュー・チンは当初、当時の阮朝の宮廷につかえますが、結局宮廷の腐敗した状況に失望し、独立運動を起こしますが、フランスに対して完全に敵対しているのとはちょっと違うようです。
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むしろ、阮朝の制度に対しての不満が大きく、近代化したフランスからも学ぼうとしています。武力で対抗しようと考えていたファン・ボイ・チャウとは違った彼の動きを追いかけてみました。戻る

2、ファン・チュー・チン前半

ファンボイチャウ

ファン・ボイ・チャウ
【スターチャンネル インターネットTV】


ファン・チュー・チン(潘周楨)は1872年、ベトナム中部クアンナム省の地主の子に生まれます。彼の父親は学者で、知識人の反乱に参加した一人でした。1885年、他の反乱指導者に反逆の疑いを掛けられて殺害されたれてしまいます。ファン・チュー・チンは、阮朝の科挙試験に合格し、首都フエの阮朝宮廷に仕えました。ところが宮廷内の官僚の腐敗に失望します、1905年に自らその座を退いく事になります。ファン・チュー・チンは、仮にフランスが撤退し、阮朝による君主制が復活しても、実際にはをフランスによる植民地支配よりも悪いものと見なすようになっていました。そこで、フランスからの独立よりも「君主制阮朝(阮朝)」の廃棄と民主共和制への移行を主張して全国を遊説し始めます、やがて東遊運動(ドンズー運動)を始めたてファン・ボイ・チャウとともに日本へ渡ります。日本では学生を教育するため、
横浜に「ビン・ゴー・ヒエン(丙午軒)」という2階建ての寮を設立しました。さらに日本の教育と政治形態を視察するため東京にも行きました。1906年にファン・チュー・チンはフランス領インドシナ総督ポール・ボーに書簡を送ります。その中でフランスに協力するベトナム人による地方の搾取を非難し、フランス人による啓蒙活動の実践、ベトナムの近代的な法律機関・教育機関・経済機関の発足、国家の産業化、保守的官僚の残存勢力の一掃をフランスに要請しました。1907年には福澤諭吉の慶應義塾にならって、ハノイに「東京義塾」という愛国的な近代式の学校が設立され、そこで「講師」となり、ファン・ボイ・チャウの著書も授業で使用しました。東京義塾は非合法な活動ではないことをアピールしながら、活動をつづけフランスの厳しいベトナム支配を非難します。その一方で、フランス人から近代化を学びまし
た。一例では搾取されていたベトナム人の小作人などにクオック・グー(ベトナム文字)を用いて近代教育を教授していきました。

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3、ファン・チュー・チン後半

東京義塾

東京義塾の教育者
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1908年、農民一揆が起こります。一揆の首謀者として、ファン・チュー・チンは逮捕されます。死刑が言い渡されるも、フランスの政友の協力により終身刑として、メコン川河口の沖合に浮かぶ島コンダオ島に流刑となりました。インドシナ総督の指示で東京義塾は建学1年余りで閉鎖されてしまいました。3年後に御社で自宅監禁を言い渡されるも、虚子したのでフランスへ追放されます。ここで彼はフランス人から
監視されながらも、フランスの政友とベトナムの亡命者の支援を得るため、パリへ向かいます。ここで、ホー・チ・ミンらとともに「安南愛国者協会」(Association des Patriotes Annamites)という団体を立ち上げて活動をします。この団体の代表がホー・チ・ミンで、彼はグエン・アイ・クォック(阮愛國)という名で愛国的な記事を書きます。1925年にべとなむのサイゴンへ戻ました。翌年1926年3月24日、病死しました。彼の葬儀には約6万人が参列し、フランスの植民地支配の終焉を要求する大抗議が国内の至る所で起こります。
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4、まとめ

ファンチューチンの墓

ファン・チュー・チンの墓(ホーチミン市タンビン区)
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以上です。逮捕時にフランスの政友がいたために、死刑にならずに済んだことと後にパリに渡航しているところからも、反フランスと言うより反王室という姿勢が強かったようです。そのあたりが、社会主義国を目指したホーチミンらへの影響が大きかったのかもしれません。独立を掲げて運動をしていたファン・チュー・チンですが、ベトナムが独立(南北統一:ベトナム戦争終結)したのは、半世紀もあとのことなの
で、非常に大変な時代だったことがうかがえます。
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投稿者: kumakuma2018

東南アジア10ヶ国中、ブルネイを除く9カ国に渡航経験があり、15年以上前からほぼ毎年渡航していて、日本で東南アジア料理店を経営しています。

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