ベトナム独立の父「ホーチミン」に影響を与えた2人の活動家 その1 ベトナムの歴史⑫

ファンボイチャウ

ベトナムの独立の父として、ベトナムのお札にも登場し、サイゴンの名前も変えた「ホーチミン」非常に有名な方ですが、彼が登場する前に恐らく彼に影響を与えたであろう2人の活動家を取り上げます。1人目はファン・ボイ・チャウという10代からフランス独立運動に携わっていた人物です。彼と日本での活動で知り合った日本人「浅羽 佐喜太郎」を取り上げてみます。
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1、はじめに

クォン・デ

右はファン・ボイ・チャウ 左がクォン・デ、
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1850年代からフランスがベトナムへ侵攻を開始し、徐々に支配を強める形で、阮朝を完全に支配したのは1880年代以降で、その間もは独立運動はあったようで、ただ圧倒できな軍事力の前になすすべもありませんでした。

しかし、この頃から今回登場するファン・ボイ・チャウは独立運動に参加していたようです。最終的に1925年にフランス軍に逮捕されるまで、日本や中国で暗躍し、日本では東遊運動(ドンズー運動)を行って多くのベトナム人を日本に留学生として送り込みました。
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2、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)

ファンボイチャウ2
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1867年生れの「ファン・ボイ・チャウ」は、10代の頃から反仏独立運動に参加していました。やがて1904年になると、フランスに支配されていた、阮朝の皇族の一人であるクォン・デ(Cường Để、彊柢)を盟主として「維新会」を結成します。1905年には、日露戦争でロシアに勝利したばかりの大日本帝国へ来日し、武器援助を求めるようとします。ここで日本の政治家犬養毅より「人材育成の必要」を説かれ、ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興しました。この時には、もう一人のベトナム革命家うのファン・チュー・チンも加わりましたが、両者の間では微妙な認識のずれがあったようです。日本では、医師の浅羽佐喜太郎に支援されて活動するものの、フランスが日仏協約で日本政府に働き掛け、最終的に1909年に国外退去になります。今度は中国へ渡り、1912年に広東でベトナム光復会を結成します。武力によるベトナムの解放を目指沿いと言う活動ですが、あまり大きな成果はありませんでした。この間の1917年5月日本の支援者浅羽の訃報を知ったファン・ボイ・チャウ偽名を使って大日本帝国に密入国します。翌年に来日した際には、「報恩の記念碑」と呼ばれる石碑を建立しまました。その後の1925年に上海にてフランスの官憲によって逮捕され、ハノイで終身刑を宣告されるが、国内の世論の反発を受けて恩赦されたのちフエに軟禁されるも、その後は目立った動きもなく、 1940年に72歳で没しました。

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3支援者「浅羽 佐喜太郎」と石碑

浅羽
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浅羽佐喜太郎、ファン・ボイ・チャウと同じ1867年に、現在の静岡県袋井市で生まれました。佐喜太郎は東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業しました。困っている人を見ると助けずにはいられない性格だったので、貧しい患者からは金銭を取らず、逆に金銭を施すような人でした。そのため慈善活動にも熱心で、神奈川県立第二中学校や前羽村(現在の小田原市)の消防団設立などで多大な寄付をしたり、前羽村や国府津町の小学校で校医を務めながら、前羽村小学校に風琴(オルガン)を贈呈等も行いました。1907年(明治40年)、故郷・東浅羽村に帰っていた浅羽は、たまたま道端で行き倒れになっていた、フランス領インドシナ(ベトナム)の民主主義運動家だった阮泰抜(Nguyễn Thái Bạt)を助けます。阮に対して東京同文書院への入学手続きや学費まで支払うなどの、金銭的な援助をしました。この事実がファン・ボイ・チャウの耳に入り、2人の交流が始まります。この頃には、日仏協約を締結し、フランス側よりベトナム人留学生たちの退去を要請されようとしていた時で、資金面でも困窮していました。ファン・ボイ・チャウは佐喜太郎に援助を求め、大金を与えて励まします。1,700円もの大金(明治末期頃の1円は現在の1万円相当)を提供してファンを助けました。2人の交流は、日仏協約の締結によるベトナム人留学生の国外退去命令が出された1909年(明治42年)3月まで続きました、の退去時にも浅羽は歓待し、2人で互いに再開を約束しました。逆にフランスの外圧による国外退去命令を推進した、大隈重信や犬養毅を酷評しています。しかし浅羽佐喜太郎、当時不治の病だった結核を長年患っていて、翌1910年(明治43年)8月に東浅羽村を大洪水が襲い、被災者への心労が加わった事も、病状を悪化させてしまい、洪水の翌月(ファンとの別れから1年半後)の1910年9月25日、東浅羽村の自宅で43歳の若さで死去しました。それを聞いたファン・ボイ・チャウ偽名を使ってでも日本にやってきて浅羽佐喜太郎の石碑を立てるに至りました。これには東浅羽村の村長と村民による金銭的援助もありました。浅羽佐喜太郎への「報恩の記念碑」は、現在も静岡県袋井市の常林寺に残されています。

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4、まとめ

記念碑

静岡県袋井市の常林寺の石碑
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以上で、ホーチミンが登場する前のベトナム革命家の一人、ファンボイチャウと日本での支援者浅羽 佐喜太郎を取り上げました。中々このあたり俺棋士については調べて見ないとわからないことが多いとつくづく感じました。実はこのエピソードを元にした日越共同のテレビドラマが、2013年に放映されています。( http://www.tbs.co.jp/partner_tbs/ :The Partner 〜愛しき百年の友へ〜 )

私たち家にテレビがないので残念ながら見てないですが、どこかに動画や映像の販売などがあれば、いちど見てみたいものです。戻る


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投稿者: kumakuma2018

東南アジア10ヶ国中、ブルネイを除く9カ国に渡航経験があり、15年以上前からほぼ毎年渡航していて、日本で東南アジア料理店を経営しています。

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