ベトナムの歴史⑪ 仏印進駐 ~フランス統治から日本統治へ~

日本軍ベトナムの歴史の11回目は、日本軍の進駐についてです。これはベトナムだけでなくカンボジアやラオスも含めたフランス領インドシナ(仏印)全体の内容です。日本軍が仏印に進出した経緯と、それまでのフランス植民地政府との関係を追いかけてみます。
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1、はじめに

1939年の世界情勢

1939年におけるアジア太平洋地域の政治地図(ウィキペディアコモンズ)

フランス領インドシナ(仏印)の支配下にあったベトナム阮(グエン)朝。そこに新たに日本軍が進駐することになります。
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日中戦争勃発後、中華民国への主力の支援ルートだった仏印の閉鎖を求める日本政府とそれに応じないフランス政府という構図だったものが、フランスのナチスドイツ支配により、日本軍の進駐が行われます。やがて行われた太平洋戦争で、日本軍が劣勢になった時に、ついに直接支配をするまでの流れを見ていきます。
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2、北部仏印進駐

ナチスとフランス

独仏休戦協定調印の直前のヒトラーらナチスの幹部
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1937年に勃発した日中戦争(支那事変)で、日本に対抗していた欧米諸国は4つの援蒋ルート(えんしょうルート)と呼ばれる方法で中華民国の蒋介石政権に対して軍事援助をしていました。そのルートの1つで最大だったのがインドシナルートだったので、日本はフランス政府に対し閉鎖を申し入れるものの、受け入れられずにいました。
1940年6月にナチスドイツがフランスに侵攻。独仏休戦協定が締結され、ドイツの事実上の支配下にはいったフランス本国の影響が低下した時に、日本側のルート閉鎖の要求に、植民地政府は本国に確認せず独自に応じます。しかし、フランス・ヴィシー政権は納得せずに新たな総督を派遣するも、この時、決定事項の撤回はなされず、協議の結果、8月には極東におけるフランスと日本の利益の尊重やインドシナへの日本軍の進駐を認める、「松岡・アンリ協定」が締結されます。

それを受けて9月22日には軍事協定も締結。翌日から日本軍の仏印進駐かが開始されます。本国の決定を受け入れない一部フランス軍との戦闘がおこるものの、日本軍も武力制圧可能な装備で進駐していき、植民地政府のドグー総督の指示により、この戦闘は終了します。日本軍はハノイを重要拠点にし、ここから中華民国への攻撃に利用しました。
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3、南部仏印進駐

サイゴン日本軍

サイゴンに進駐する日本軍
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1940年の9月7日に日独伊三国条約を締結し、アメリカが警戒し始めます。アメリカやイギリスはこれに対抗して日本に経済制裁を課します。
日本は、オランダ領インド政府に圧力をかけるものの交渉は決裂。ここで資源獲得のために仏印南部への進駐が主張され始めます。
1941年7月の御前会議により、仏印南部への進駐が裁可されます。イギリスが警告し進駐の時期を一旦延期します。フランス政府は対応をナチスドイツと協議しようとするものの、ドイツ側が不在のためフランス政府は単独で日本の要求を受け入れます。

その状況に不満を持ったアメリカ、は日本に対してさらなる経済制裁をちらつかせます。
日本とアメリカの間で交渉をするものの平行線のまま11月末に決裂します。
その結果、1941年12月に日本はイギリスととアメリカに宣戦布告。太平洋戦争(大東亜戦争)の道を進むことになります。

北部に続いて南部にも進駐した日本軍はこの時はあくまで植民地政府を温存する方針を取ります。

しかし、大東亜戦争の目的とされた植民地支配からの解放と矛盾し、ベトナムの独立運動家にとっては新たな支配者が増えただけにすぎませんでした。

その後、1942年の連合国の上陸作戦が成功したことにより、フランスヴィシー政権の存続が危機的な状況になった時に日本軍の仏印への圧力がさらに高まります。1943年には直接支配の声も上がるものの、中央政府は「戦火の拡大を抑えたい」との理由より、植民地政府は維持されます。1944年にヴィシー政権が消滅し、進出先のフィリピンが奪われると、最前線となったインドシナを死守する目的のため、明号作戦(めいごう作戦)が開始。日本軍が武力制圧し、植民地政府は消滅。ベトナムは形式的に独立することになります。
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4、まとめ

仏印

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今回はベトナムで行われたこととはいえ、ベトナムの頭の上での出来事という内容で、ギリギリまで植民地政府が温存されたこともありベトナムにとっては支配者が増えたくらいの状況にすぎませんでした。ただ日本軍が、アメリカや英国との関係を悪化し、次々と戦争に巻き込まれた歴史の背景にこのインドシナ半島の動きが大きな意味を持ったのがわかります。

ちなみに現地の日本軍の規律はとても厳しいもので、陸軍刑法では強姦罪は「無期または7年以上」の懲役が課せられ、住民の財物を略奪したら1年以上の懲役、戦死者や戦傷者から物を取り上げても1年以上の懲役と厳しいものだったので、強姦や略奪などは行われることはなかったようです。一般のベトナムの民衆と日本兵の関係は比較的良好だったそうです。

ただ、ベトナムではホーチミンら独立派が地下活動的に独立運動を高めていた側面もありました。そのあたりは次回に触れます。

ちなみに当時の様子が少しみられるこちらの小説もおすすめです。

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投稿者: kumakuma2018

東南アジア10ヶ国中、ブルネイを除く9カ国に渡航経験があり、15年以上前からほぼ毎年渡航していて、日本で東南アジア料理店を経営しています。

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